映画『名もなき者』にみる編集論
つい先日まで酷暑酷暑と言っていたと思ったら、気が付けば師も駆けずり回る年の瀬、2025年も終わりが近づいてまいりました。今年は、巨匠デヴィッド・リンチ監督の訃報に始まり、『国宝』の記録的な大ヒットなど、映画界の話題に事欠かない一年でした。
そんな2025年の個人的ベスト映画は、ジェームズ・マンゴールド監督作『名もなき者』(原題:A Complete Unknown)です。
『名もなき者』に描かれた若き日のディラン
『名もなき者』は、アメリカの伝説的ミュージシャンであるボブ・ディランを題材とし、フォークの貴公子としてデビューしたディランが、ロックへの転向を経る中で、フォーク関係者や従来のファンからの反発を浴びながらも、自己のスタイルを確立するまでを描いた作品で、時系列としては、1961年から1965年までにあたります。
本作のタイトルは、ディランの代表曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞からとられています。
主演のティモシー・シャラメをはじめ、ほとんど「憑依」と言ってもいいほどの俳優陣の熱演に引き込まれる、素晴らしい作品でした。
さて、本作の軸となっているのは、ディランが1963年から3年連続で出演した「ニューポート・フォーク・フェスティバル」です。
この3回目、すなわち1965年の演奏が、本作のクライマックスになります。
ド派手な水玉シャツを身につけ、エレキギターを携えたディランがバックバンドを従え、1曲目の「マギーズ・ファーム」をジャカジャカと奏で出すと、フォークソングを求める観客から大ブーイングが起こります。そして2曲目に入ろうというところで、観客とディランとの間でこんなやり取りが交わされます。
“Judas!!”「裏切り者!」
“I don’t believe you. You’re a liar. Play it fuckin’ loud”
「あんたなんか信じない。嘘つきめ。(バンドに向かって)クソでかい音でやろう!」
そこから嵐のような「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏するという、たいへん痺れるシーンになるのですが。
このシーン、実は虚構です。
厳密に言えば実際にこのやり取りは存在しました。ですがそれは、翌1966年、イギリスツアー中での出来事なのです。
こちらも映像や音源が残されており、マーティン・スコセッシ監督によってドキュメンタリー映画化もされた(奇しくもタイトルは、本作と同じ「ライク・ア・ローリング・ストーンの一節からとった『ノー・ディレクション・ホーム』)、ディランファンにとってはお馴染みの「伝説」です。
つまり、件のシーンは、2つのライブが混在して描かれているということです。
なぜマンゴールド監督は史実と異なるシーンを撮ったのか?
もちろんボブ・ディランは実在の人物であり、描かれる出来事も事実をベースにしています。しかしながら、これはあくまでも映画、すなわちフィクションです。事実をベースにしながらも、そこには明確な意思を持った「編集」が施されています。
件の応酬はディランの「転向」の象徴的な出来事です。しかし、そこまで克明に描こうとすると、映画としての尺も足りないでしょう。そしてなにより、「ニューポート・フォーク・フェスティバルを通したフォークからロックへの転向」という映画の軸そのものがぶれてしまいます。
マンゴールド監督は、ディランの転向をより劇的に描くために、「編集」を行ったというわけです。
それは何もおかしいことではありません。私たちは施された「編集」によって、このシーンに感動できるからです。
(余談ではありますが、こうした音楽伝記映画の嚆矢となった『ボヘミアン・ラプソディ』にも、こうした作為的な事実の改変は何箇所も見られます)
何を描き、何を描かないか。何を取り上げ、何を切り捨てるか。
教材制作も、こうした「編集」の連続です。
もちろん事実を改変することはありませんが(笑)、より分かりやすく伝えるために、あえて解説や用語をカットすることは、日常的に行っています。
たとえば入試直前の中学3年生に向けた問題集の「幕末」の項目に、「薩摩・長州が江戸幕府を倒したのだけど、実はもともと薩摩藩は公武合体派として文久の改革を行っていて第一次長州討伐までは云々」などと延々と記載があったら、混乱すること甚だしいですね。「事実」としては正しいかもしれませんが、それは「分かりやすい」参考書ではありません。
けれどこれが、幕末という激動の時代の物語性を伝える読み物だったら?今度は各藩の思惑や志士たちの行跡にページを割きたい代わりに、「いやむな(1867)しいな大政奉還」のような年号暗記はノイズになってしまいます。

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